Profile
– 神田 英輔 –

神田英輔です。カタリストのなかでは最年長。第二次世界大戦が始まって一か月後に誕生、鹿児島育ちです。米国人の妻と結婚して半世紀。三人の子ども、六人の孫に囲まれているおじいちゃんです。これまで活動してきた国の数は、ほぼ年齢と同じです。

大学生のとき初めて、治せる病気で多くの世界の子どもたちが亡くなっていることを知りました。そのころ「まだ会ったことがない『隣人』を自分のように大切にする生き方」に心を動かされて、ご飯を十分に食べられない人が多かったバングラデシュに出かけました。人々が自分の力を生かすためのお手伝いをしました。

その後、いくつかの国で「誰もが大切で自分の力を生かせる社会」に変えたいと願う現地の人たちに協力しました。私たちが他の国の人たちにいろいろ差し出せるように、彼らから受け取るものがたくさんあることに気づきました。どこの国や文化の人とも、お互いに差し出しあって喜びがあふれる世界を願って活動しています。

Time line

1965

大学卒業

横浜国立大学で経済学を学んだ後、日本と米国で30歳まで聖書の勉強をしました。

国立フィリピン大学で奉仕していたころ

古くなり破れた自分の下着をゴミ箱に捨てたときのこと。掃除をするために雇われていた青年がこれを拾って着ていたことに何とも言えない気持ちになったことが忘れられません。

1971年~
1981年~

タイにあるラオス難民キャンプで働いていた女性との出会い

ベトナム・ラオス・カンボジアが社会主義体制に移行したことにより、約150万人が難民になって国外に流出、タイにあるラオス難民キャンプでボランティアとして働いていた女性と出会い感銘を受けました。

南米ボリビア

ボリビアという国で、三年間雨が降らなかったために食べるものを収穫できず大変ななかにいた方々との出会いが、私の人生を変えました。

『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』(聖書)

と語っておられるイエス様のことばが深く心に響いたからです。

1982~
1984年~

バングラデシュ

一日5円のミルク代が払えないために死んでいったハマン君のことが忘れられません。みんなにとって5円って、どんな意味があるかな?

エチオピア

約100万人が食べるものがなくて死んでいったアフリカ・エチオピアに食料の配給を手伝うために出かけました。遠いところから来たために食べ物の配給をもらえなかった二人の女の子に、自分がもらった大切な食べ物を分けてあげていたおじさんの美しい姿を忘れることができません。この時の体験は絵本として出版された「ゴンダールのやさしい光」(全国学校図書館選定図書)。

1985年~

中国

中国の僻地において貧しい人々を助けるために現代の名工・八木沢啓造氏(竹工芸)を伴って指導者の訓練を始め、1985年以来22年間にわたり、河南省洛寧県、福建省長汀市、広西省欽州市、安徽省鎮西県、雲南省昆明市において、啓造氏、息子・正氏、孫・洋志氏と八木沢家三代、またお弟子さんたちによる訓練を行ってきた。

1989年には、これまでの貢献に対して河南省洛陽市洛寧県から「栄誉賞」をいただいた。

ザイール難民キャンプ

アフリカ・ザイール難民キャンプに派遣していた看護スタッフを訪問、期せずしてルワンダ大虐殺数か月後の現場を目のあたりにすることになりました。

1994年~

ルワンダ大虐殺

100日間続いた大虐殺はまだそのままの状態が残っており、教会堂をはじめ至るところに転がっている遺体に人間の残虐さ、悲惨さに直面し、たくさんの「なぜ」が私の心を占領したことでした。

阪神・淡路大震災

これまで、海外における支援活動だけを行ってきたが、関西地区で起こった大震災を放置できず、六ケ所の拠点を置いて救援活動にあたる。いつでも「想定外」の事態が起こりうること、人生で何が一番大切なのかを問われた経験でした。

1995年
2005年9月

愛・地球博覧会

「愛・地球博覧会~地球市民村」にて二つのパビリオンを提供され出展、開発途上国と先進国との格差を表現する「パンを用いた食卓のワークショップ」にはたくさんの方々が参加してくださった。

「声なき者の友」の輪を創立

豊かな国々が提供する「モノ、カネ、技術」が開発途上国の貧困や飢餓を解決する鍵であるというこれまでの考え方を見直す必要があることを痛感させられ、21世紀の世界に貢献できる働きをしたいと願い、外国の助けがなくても、開発途上国の人々が自分たちで貧困から脱却し、自立の道を歩むために、自分たちに与えられている潜在的な能力を引き出すお手伝いしたい、このような「考え方」をする人々を育てたいと願っています。

2010年~
2011年~

東日本大震災へのかかわり

創立して6か月、支援活動に必要と考えられていたお金も物資もない時に、東北を襲った「東日本大震災」。
おカネやモノに頼らない支援活動が何であるのかを教えていただいた時でした。原発事故のためにどの団体も活動をためらって敬遠していた福島県の人々に寄り添うように示され活動、まず、被災された方々をお訪ねし、じっくりとお話を伺うということから始めました。

人々の痛みに寄り添う働き、そしてリーダーの方々を温泉にご招待し、福島の未来を一緒に考える「福島未来会議」を開催。未来会議の一環として福島のリーダーたちを伴ってウクライナ・チェルノブイリ原発を訪問。事故の状況、その後のことなどを伺い、25年後の福島のことを祈り考える時を過ごしました。

– Details –

1972年

米国留学から帰国し一年後に結婚。そしてキャンパス・クルセードという団体の働きの一環で、妻はUniversity of the East、私は国立フィリピン大学で一年間奉仕。

フィリピンで古くなり穴が開いた自分の下着をゴミ箱に捨てたときのこと:掃除をするために雇われていた青年がこれを拾って着ていたことに何とも言えない気持ちになったことが忘れられません。

名古屋、東京を拠点に次世代を担う大学生に聖書の真理を伝える活動に従事。

1972年

東京の教会で上木敏子さん(1975年、ベトナム・ラオス・カンボジアが社会主義体制に移行したことにより、約150万人の人々が国外に難民となって流出した際、FHI(Food for the Hungry)を通してタイにあるラオス難民キャンプでボランティアとして働いて帰国していた)という女性と出会い、女性一人で頑張っている人がいると感銘を受け、何か協力できることはないかと提案した。

名古屋において大学生を対象とする働きを進める中で、山森鉱治氏という衣料販売店の社長と出会う。実弟を紹介したいということで、FHI創設者ラリーワード師の働きを引き継ぐことになっていた山森鉄直師(当時は米国バイオラ大学で教鞭をとっておられた)を紹介され、日本でのFHIの働きを推進するために協力して欲しいと依頼され、数名の理事を推薦し日本での働きを始める際のアドバイスをさせていただいた。

1982年 大学生対象の働きから人生の転換

山森鉄直師に招待され、観光気分で訪問した南米ボリビア(三年続きの干ばつのために、数十万人の先住民の方々が飢餓に直面していた)。この人々とは自分が直接関わることなど考えたこともなかった私だったが、ボリビアの寒村で心に響いてきたのがイエス様のことば、『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』というものでした。

これまで自分なりにイエス様を愛し従っていると思っていた自分の傲慢さを悔い改めさせされ、この人々と共に生きることこそイエス様を愛することであると気づかされた。ここで自分の生涯を飢餓で苦しむ方々のために用いようと決心させられ、FHIを通して主にお仕えする奉仕を始めた。

1984年~2010年「日本国際飢餓対策機構」の時代

それまでFHIの日本支部として活動していた働きを、日本独自の自立した働きに転換するため「日本国際飢餓対策機構」の創設に関与し、総主事として組織の責任を負う。日本からも海外に駐在スタッフを派遣し始めた。以来、スタッフの活動現場を訪問し、活動の評価や立案などに従事。(エチオピア、ケニア、ウガンダ、モザンビーク、ルワンダ、ザイール、ウズベキスタン、タジキスタン、モンゴル、バングラデシュ、インド、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、中国、ボリビア、ペルー、コスタリカ、メキシコ、ニカラグア、ドニニカ共和国、ホンジュラス、など)

世界の現状があまり伝えられていなかった日本社会に対して啓発の必要性を覚えて、16ミリ映画の製作を始めた。

「ベンガル85」、「飢餓からの脱出」、「エチオピアにパンと愛を」「遥かなるエチオピア」「隣人の叫び」「共に生きる」「明日輝くために」「極貧のアンデスから」「翔べアンデスの子よ」「南のおともだちのために」「愛が実を結ぶ時」「拉致された少女たち(ウガンダ)」「平和への道~いやしと和解を通して(ルワンダ)」など

1985年 エチオピアの飢餓に対する緊急援助、そして自立開発協力への継続的協力

100万人が餓死していると報道されていたエチオピアに飛び、北部ゴンダール州ならびに南部ショア州における緊急食糧支援活動に参加。日本から毛布100万枚を送る事業にも参加、現地での配布を担当した。この時の体験が絵本として出版されたにしたものが「ゴンダールのやさしい光」(全国学校図書館選定図書)。

日本から緊急援助のために楠原博次、さらに佐々木和之、野田浩正、森田哲也などのスタッフを派遣し、長期にわたって自立開発に寄り添う活動を行った。

日本国内における主な啓発活動

1985年~

中国辺地における竹工芸指導者訓練を始めた。

鄧小平による中国開放政策の結果、中国は初めて海外のNGO団体に貧困解消への助けを要請。この要請に応え、現代の名工・八木沢啓造氏(竹工芸)を伴って調査のために訪中。これまで外国人は立ち入り禁止とされていた河南省洛寧県(村人の年間収入は一人当たり約2000円)での第一期の竹工芸指導を行うことを決定。以来、五期22年間にわたり、河南省洛寧県、福建省長汀市、広西省欽州市、安徽省鎮西県、雲南省昆明市において、啓造氏、息子・正氏、孫・洋志氏と八木沢家三代、またお弟子さんたちによる竹工芸指導者訓練を実施。

1993年には洛寧県から二人の研修生を大田原市の「八木沢工房」に招待、日本でしか学べない高度の訓練を実施。1989年には、これまでの貢献に対して河南省洛陽市洛寧県から「栄誉賞」をいただいた。

1986年~

FAO(国連食糧農業機関)の後援による「世界食料デー」を大阪、沖縄で開催、それ以来全国で展開)

1987年~

実際に貧困を体験してもらうために、アジアやアフリカ各地に「ワークキャンプ」チームを派遣することを始めた。

1994年
ザイール難民キャンプでの支援活動、ならびにルワンダ大虐殺の現場を視察

毎日数十万人単位でルワンダから逃れてくる「ルワンダ難民」のためにザイール難民キャンプに派遣していた竹内緑看護士を訪問。毎日毎日逃れてくる難民の数に圧倒されルワンダで何が起こっているのかを確認するためにルワンダに入った。100日間続いた大虐殺が収まって間もない時期、教会堂をはじめ至るところに転がっている遺体に驚愕。たくさんの「なぜ」が心を占領した時でした。

1995年 阪神・淡路大震災

これまで、海外における支援活動のみを行ってきたが、関西地区で起こった大震災を放置できず、六ケ所の拠点を置いて救援活動にあたる。いつでも「想定外」の事態が起こりうること、人生で何が一番大切なのかを問われた経験でした。

2005年9月

「愛・地球博覧会~地球市民村」にて二つのパビリオンを提供され出展、開発途上国と先進国との格差を表現する「パンを用いた食卓のワークショップ」にはたくさんの方々が参加してくださった。

2010年3月「声なき者の友」の輪を創立

「日本国際飢餓対策機構」が財団法人化されたことを機に退職。同年9月に柳沢美登里、陣内俊氏と共に「声なき者の友の輪」を創立。

豊かな国々が提供する「モノ、カネ、技術」が開発途上国の貧困や飢餓を解決する鍵であるというこれまでの考え方を見直す必要があることを痛感させられ、21世紀の世界に貢献できる働きをすべきであると確信。外国の助けがなくても、開発途上国の人々が自分たちで貧困から脱却し、自立の道を歩むために、彼らに与えられている潜在的な能力を引き出すお手伝いしたい、このような「考え方」をする人々を育てたいという願い。

2011年 東日本大震災へのかかわり

創立して6か月、支援活動に必要と考えられていたお金も物資もない時に、東北を襲った「東日本大震災」。おカネやモノに頼らない支援活動が何であるのかを教えていただいた時でした。原発事故のためにどの団体も活動をためらって敬遠していた福島県の人々に寄り添うように示され活動を開始。被災された方々をお訪ねし、じっくりとお話を伺うということでした。人々の痛みに寄り添う働き、そしてリーダーの方々を温泉にご招待し、福島の未来を一緒に考える「福島未来会議」の開催。大変喜ばれました。未来会議の一環として福島のリーダーたちを伴ってウクライナ・チェルノブイリ原発を訪問。事故の状況、その後のことなどを伺い、25年後の福島のことを祈り考える時を過ごした。