柳沢美登里 夢

カタリスト柳沢美登里の夢を紹介します。

戦後生まれ日本人としての、わたしの戦後。

真の大人による21世紀のために

私は、第二次世界大戦で日本が敗戦してから15年後、1960年に生まれた。 それは、日本の奇跡の復興と言われた高度経済成長時代の幕開けのときだった。

生まれていない私には第二次世界大戦の記憶はない。けれども、小学生のとき、戦時中、女学生(今の中学生)だった今は亡き母から聞いた話が、私の擬似戦争体験である。 敗戦の色が濃くなった1945年、空襲警報のサイレンの響きのなか、東京上空に飛来する米軍B29爆撃機から落とされる焼夷弾の雨。母と祖母は手を取り合って、ヒューンという音と共に次々に落ちてくる焼夷弾から逃げ回ったという。打ち上げ花火のヒューンという音を聞くと、あの空襲を思いだしてぞっとする。母はときどき言っていた。もう一つの私の記憶は、家にあった長崎原爆の写真集である。 小学生のとき、母の本棚で見つけたセピア色の写真集だ。これが街だったのかと思うほど、粉々に破壊され瓦礫になった長崎の市街風景。そして、目をそむけたくなるケロイドを負った被爆した子どもの写真。私が小学生のときに聞いた話しと見た写真集は、戦争の無残さ、痛ましさを私の心に植えつけた。そして、苦しみや悲しみを経験した戦争被害者の日本人という側面から、平和を願う日本人になっていった。

日本人は戦争加害者であるという現実

それから、10年以上が経ち、戦後40年の1985年。私は始めてフィリピンを訪れた。そこで、第二次世界大戦での日本の立場を正反対の角度から突きつけられたのだ。北部ルソンの村を訪問したとき、私を日本人と知って数人の老人が迎えてくれた。そして、終戦間際に起こった出来事を話してくれた。植民地支配をしていた日本軍に現地使用人として雇われたとき、よく言われた言葉は「バカヤロー」。日本語で覚えている言葉は、それだけ? 植民地支配では、他の民族を見下し従わせることが当然だったのだ。その中で罵倒する言葉だけが吐き出され、現地の人々の耳に残っていく。美しい日本語を伝えられなかった日本人の姿が悲しかった。 お互いに尊敬しあう関係とは正反対だ。支配する側は、相手を馬鹿にしてこき使い、支配された側は、恐怖におびえ、次第に相手への憎悪が増大していく。米軍のフィリピン上陸で北へ逃げてきた日本軍兵士たちが、追いつく米軍への情報漏えいを避けるために、何十人もの一般フィリピン人を銃殺した橋のたもとを示された。 そう、第二次世界大戦では、日本人は紛れもなく、他民族への戦争加害者であったのだ。海を渡って行かなければ、加害者であるという生々しい現実は判らなかった。

「私に何ができるだろう。」

個人としての日本人の私は、生まれていなかったので、戦争の直接責任はないかもしれない。けれども日本民族の一人ひとりとして、他民族の人々に対して犯してしまったことに、責任をもつ側の一員であることを考えずにいられなかった。なぜ、日本は植民地支配を始めることになったのだろう。なぜ、戦争という手段を選んでいったのだろう、と。

それから、数年後、私は日本の戦争の爪あとがほとんどないアジアの一角、世界の最貧国といわれたバングラデシュで住民自立支援の働きを始めた。1995年.戦後50年の節目の年。私はバングラデシュでの働きで最貧困の人々の生活を知り、その格闘と夢を深く知るようになっていた。その年、私たちの団体に一人の新人がやってきた。大学を卒業したばかりの韓国人女性だった。私はバングラデシュでの女性としての長年の経験から、彼女が適応できるように支援してほしいと依頼された。 彼女と英語で話をしていると、自然に韓日関係(韓国人の側からは韓日という)とその歴史の話になっていった。彼女は歴史に造詣が深く、年の差を越えて私たちは多くのことを語り合った。私は彼女との出会いに、日本人としての私の戦争は終結していないことに気づかずにいられなかった。

長い間私は、日本が支配した歴史のある朝鮮半島の人々に会うことに大きなためらいがあった。できたら避けたかったのだ。「私に、何ができるだろう。私にはどうしようもないではないか。」

だが、出会いが与えられた。日本では今年100周年になる1910年の歴史上の出来事を「日韓併合」という。けれども韓国では、厳密には1909年に「日本による侵略・植民地化」が行われたというのだと教えられた。「日韓併合。」なんと、中立的な響きの言葉が選ばれたことだろう。私たち日本人の主体的な責任が聞こえてこない。韓国の人々は厳しく日本の責任を問いかけてきたことに気がつかされた。私たち日本人は耳を塞いできたのだ。彼女の教会の老齢の牧師が励ましに訪れたとき、私もお会いすることになった。 私を日本人と知って、彼女と話していた韓国語を終わらせると、とても流暢な日本語で声をかけられた。「国民学校(今の小学校)や中学では、韓国語は禁止で日本語だけ学ばされましたからね。」 他の民族の言葉や文化を踏みにじり、日本の言葉と文化を強制させた20世紀前半の日本のあり方をどのように説明し、謝罪の言葉を述べたらよいかわからず、情けない思いでいっぱいになったことが昨日のことのように思い起こされる。

「なぜ、日本は他の民族の言葉を禁止し、文化をさえぎり、支配することに血眼になってしまったのだろう。」

その答えの一つは、産業革命以来、世界の強国となったヨーロッパ諸国に追いつき、追い越すことが、20世紀の日本の目標になっていたからだと思われる。植民地を持つことで経済力を格段にアップさせる。そのためには強力な軍事力で支えられなければならない。 19世紀後半のヨーロッパ諸国の図式をそのまま模倣し、当時の世界が目指した形での「一流国」になる道を選んだのだ。


2012年3月 韓国人の友人と広島原爆平和記念公園を訪問

2010年。戦後65年。日本人として「戦後生まれの私の戦後」はまだ、終わっていない。20世紀に日本人は本土空襲、そして原爆での無残さ、悲惨さを経験する被害者の立場を経験したと同時に、アジアの国々の言葉や文化を踏みにじり、日本の優越性を押し付け、経済・軍事力によって世界で認められる「一流国」になろうと加害者にもなった。
戦後65年。日本は、国の経済力では世界第2位の地位を長い間保持し、モノはあふれかえり、快適さと便利さ追求では世界有数の国になっている。けれども、人との関係、一人ひとりにとっての生きる意味、そして日本の国際関係での貢献という指標を含めてみたとき、私たち日本人は、心から幸せで「いのちが輝いている民族」として、紹介できるようになったと言えるだろうか。そもそも私たち日本人は戦後、戦勝国米国に守られた経済復興・発展以外、何を目指してきたのだろう?他の人、他民族を見下すことなく、心から尊重するには、どうしたらよいのだろう?どうしたら、すべての民族と対等であり、平等であるという国際社会の理解と実践が生み出されるのだろうか。

私たちの人間の内側には、自分が踏みにじられないように、自分を守るために、意識的、無意識的にお金も含めた力や地位を求める思いが潜んでいる。私たちは他人と比較して足りないものに気づくと妬みを感じ、人をおとしめたいと願う人間としてのさがを負っている。「私は悪くない、悪いのは相手だ。」そうやって、責任転嫁を図り続ける未熟な自分が存在する。まず、この事実を受け入れることから始める必要があるのかもしれない。

そのうえで、経済力、軍事力だけに頼らず、世界が平和であることを求めるために、自分自身の成熟を出発点とすることが最善の道なのかもしれない。自分だけを守るために、お金や力や権力を求めるのではなく、家族、隣人、世界の人々すべてが守られ、生かされることを心から望んで自分を差し出してみる。自分には足りないものがたくさんあり、不完全であるということを受け入れ、他の人や民族に与えられている才能と協働し、補い合う関係づくりという生き方を選んでみる。自分の役割を理解し、出来なかったこと、失敗したこと、人を傷つけたことの責任を自分のものとし、心から赦しを請い、償いにふさわしい再生の行動を実践する。また傷つけられたときには赦す決心をし、お互いの和解と回復を心から願って行動する。

個人としても民族としても、不完全な者であるけれども、自分に与えられた責任を自覚して、お互いのいのちの目的の回復のために行動し、お互いの足りなさを補い合う相互依存によって、共に成長していく真の大人となることを選んだとき、世界の平和が永遠に続くようになるのかもしれない。


FVIチームと原発事故後の福島訪問

日本人として「戦後生まれの私の戦後」が本当に終わるのは、私たち日本人ひとりひとりが20世紀に犯した同じ過ちに陥ることがないように、お互いに価値を認め、相互に補い合う相互依存を実現する新しい世界の枠組みを造り、実践の一歩を歩みだす、そのときなのかもしれない。