主の祈り

和解の使者は、「主の祈り」を生活化します。

主の祈り 天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。(マタイ 6:9-13)

天にいます私たちの父よ

創造の神は、私たちを創られたお方です。私たちが「天にいます私たちの父よ」と祈るとき、私たちは、自分がどこにいても、何をしていても私たちはこのお方の前に生かされているのだということを認めて生きるのです。
この方を先に知ることを許された私たちは、私たちの周りの一人ひとりにとってもこのお方が「父」なる存在であり、このお方がどんなにすばらしいお方であるかを多くの人々に行動で伝えることによって、この人々と共に創造の神を「私たちの父よ」 と呼べるようになるために生かされているのです。

御名があがめられますように

「御名」とは「創造神ご自身」のことです。歴史を通して、神はご自分がどのような存在であるのか、歴史の中でどんなことをしてこられたのか、今何をしておられるのか、将来何をなさろうとしておられるのかということを啓示してこられました。全てを統治し、私たちの必要の全てを知り、全てを充足させることができる全能の力を持ち、私たちの人生を最善に導く自分を全ての人に知って欲しいと願っておられるのです。

「御名があがめられますように」と祈るとは、私たちの生き様(行動や言葉)を通して、神様がこのようなお方であるということが証しされていくように祈ることです。

御国が来ますように

神の国が来るとは、神のみこころが天において行われるようにこの地でも行われるようになるということです。まず自分自身の内に、そして自分の家族内に神の国が到来することを求め、さらに自分の関わる全ての場(所属する教会・学校・ビジネス・スポーツ、政治、文化活動の場など)において神の国が実現することを求めます。

神の国がまもなく来るという幻と信仰を与えられた者たちが、愛をもって行動することによって神の国は実現されるのです。私たちの内に住んでいてくださるイエス・キリストに、自分の心、目、耳、手、足などからだの全てを用いていただき、日本の社会の変革をキリストに成し遂げていただくことを祈ります。日本に神の国が来るためには、政治界のリーダー、経済界のリーダー、文化的な影響力を持った人々が主イエス・キリストの思いで生きることが必須ですので、この方々のためにも毎日祈っていきます。


                    そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(テモテ 第一 2:1-4)

私たちの日ごとの糧をお与えください

「私たちの日ごとの糧」と言われているということは、自分だけが食べられれば良いのではなく、地球家族に属する「私たち」 全員に必要な糧が毎日与えられるということです。「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」 (イザヤ58:10)などのみ言葉に示されているように、主の願いは誰も飢えることのない世界の実現です。

あなたや私が分かち合うことによって、この様な社会は実現されるのです。具体的には、「落ち穂募金」を始めます。「落ち穂募金」とは、主の命令に従って、自分にとっての「落ち穂」を飢餓で苦しむ方々のために毎日取り分けて、世界の飢餓で苦しんでいる人々に分かち合うために行う募金です。主の命令に従って、食事のたびに、「私たちの日ごとの糧をお与えください」と祈り、少なくとも1円玉と5円玉(示された人は50円玉、500円玉も)は落ち穂だと考えて、自分のためには使わないで世界の飢餓で苦しむ人々に捧げる生き方を生活習慣にします。


                    これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記 23:22)

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

まず自分自身が赦されなければならない存在であることを深く認識し、イエス・キリストの十字架を信じて、自分の罪を告白し、主の憐れみをいただきます。


                    もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(ヨハネ第一の手紙 1:8-10)

イエス・キリストは、十字架の上で、自分を槍で突き刺し、十字架に釘付けした人々のために祈り、彼らをお赦しになりました。また、姦淫の現場で捉えられた女性を赦されました。たとえ自分では『赦せない』と感じる人々であっても、その人を赦し、その人と和解するキリスト者の生き方を身に付けます。

律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。 (ヤコブ 4:12)

私たちの内におられるイエス・キリストに生きていただくことによって、人々と和解する生き方が身に付いていくのです。神からの一方的なプレゼントである恵みとしての「赦し」をいただき、愛を体験した者として、イエス・キリストが十字架の上で祈られた祈りを自分の生活の場で実践します。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 (ルカ 23:34)

イエス・キリストは、十字架の上で、自分を槍で突き刺し、十字架に釘付けした人々のために祈り、彼らをお赦しになりました。また、姦淫の現場で捉えられた女性を赦されました。たとえ自分では『赦せない』と感じる人々であっても、その人を赦し、その人と和解するキリスト者の生き方を身に付けます。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください

「普遍的な教会」の具体的な表れは、世界中で地域に根ざした働きをしている「地域教会」です。地域教会は、信徒たちが礼拝のために定期的に集まり、交わりをなし、聖書から教えられ、訓練され、奉仕のために整えられ、派遣される場です。地域教会はキリストの体を受肉して生きるように召されているのです。教会がそのかしらなるお方に従うとき、教会の地域への奉仕の働きによって、神の国のメッセージが信頼されるものとなるのです。

地域教会がその信徒たちを社会のすべての領域に送り出すことによって国々は弟子とされていくのです。これらの信徒たちが、自分に与えられた技術や賜物を用いて他者に奉仕するとき、彼らは「変革の使者」となって生きることになります。それぞれの置かれた領域において、自分のライフスタイル(生き方)を通して、また、神の国の実現という意図を持って愛の行動を行うことを通して、キリストの支配が確立されていきます【エペソ4:11-13】