徒然遊び歌
聖書の言葉をヒントに「生きる喜び」の秘訣を、川柳もどきの「いろは歌」に託して詠んでみました。
か
型通り
練達極め
型破る
~ 型通り 練達極め 型破る ~
美しい日本の伝統を創り出してきた「型」。
日本の私たちは長い歴史を通して、茶道・華道・礼道や柔道・剣道・相撲などの「型」を生み出し、この「型」が継承されながら、美しい日本の伝統を創り出してきました。基礎的な「型」を習得し練達した人々は、新鮮な発想で従来の「型」を打ち破り、新しい「型」を創り出し、新たな流派を編み出すことによって日本社会をより洗練されたものにしてきました。「書き方」「書き方」「話し方」「食べ方」など、「なすべき方法・やり方」としての「仕方」も一般化し、私たち日本人の「考え方」や「生き方」に大きな影響を与えてきました。皆が「型」通りに生きる社会は、皆と一緒という安心感があるため、確かに安定したものとなり、住み心地の良い平和なものになりますが、丸山真男氏が指摘しているように「タコ壺」社会の様相を呈してしまう傾向も持っています。
同調圧力による「横並び社会」
同調圧力が強く働くと「横並び社会」が出来上がり、全ての人々を自分と同じ「枠」に嵌め込もうとする傾向が強まるため、同調できない人々・横並びに満足できない人々にとっては、生き難い不寛容な社会になります。結果として、このような人々を社会の外にはじき出してしまうことになり、社会は徐々に硬直化し、新しいことに挑戦する優秀な頭脳を海外に流出させることになります。
お互いが個性あるユニークな者として創造されたことを信じ、尊重し合う時、練達を極めた「型破り」の人々も生き易い日本社会になるのではないでしょうか。
新約聖書 Ⅰコリ12:14~26
実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。