徒然遊び歌
聖書の言葉をヒントに「生きる喜び」の秘訣を、川柳もどきの「いろは歌」に託して詠んでみました。
と
毒は毒
たとえ無毒と
信じても
~ 毒は毒 たとえ無毒と 信じても ~
「鰯の頭も信心から」ということわざがあります。
この世の中には絶対的な真理など存在しない。だから、鰯の頭のような「つまらない」ものでも、それを信仰する人には尊く思われる。大切なのは「信仰する心」なのだ。あなたが「真理と信じるもの」が「真理」なのだと教えるものです。
「こうあって欲しい」という私たちの願望を託した「偶像の神々」
もちろん「信じる心」は大切なものですが、「鰯の頭」を深く信じたからといって、私たちの人生を意味あるものに変革してくれることはありません。砒素という毒物をアスピリンだと信じて服用してみたらこの諺の「偽り」を発見することでしょう。
私たちは「八百万の神々」に馴染んできました。「こうあって欲しい」という私たちの願望を託した「偶像の神々」を造り出してきました。これらは私たち人間「が」造ったものです。しかし聖書は、人間「を」造った神について教えてくれています。この「が」と「を」との違いは、たった一字に過ぎませんが私たちの運命を左右する重要な違いです。私たちを「死」に追いやるか、「いのち」に導いてくれるかを決めてしまうからです。
本当に大切なことは、私たちが何を信じるのかという「信じる対象」です。
私自身「聖書」を通して、人間「を」造った神、自分のことを「道・真理・いのち」であると宣言しておられるお方に出会い、このお方を信じるようになって初めて自分の人生には意味があること、被造物すべてには秩序と調和、意味と価値があることを理解できるようになりました。大切な人生です。自分が信じているものをよく吟味して「真理」を求める者でありたいものです。
新約聖書 ヨハネ 14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
旧約聖書 詩篇135:15~18
異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず目があっても見えない。耳があっても聞こえずまたその口には息がない。これを造る者もこれに信頼する者もみなこれと同じ。