徒然遊び歌
聖書の言葉をヒントに「生きる喜び」の秘訣を、川柳もどきの「いろは歌」に託して詠んでみました。
ぬ
盗人は
気がつかぬ間に
忍び寄る
~ 盗人は 気がつかぬ間に 忍び寄る ~
日本では一年を通して数十万の多彩な祭りが行われていると言われています。祭りは、運営企画をする人・実際に参加する人々・見る人々など、あらゆる人々を「ひとつ」にし、共同体を結びつける大切な行事です。これだけ多くの祭りが行われてきた理由のひとつが、生かされていることへの感謝と、盗人のようにいつ襲ってくるかわからない苦難を避けたいという願いと祈りがあったからでしょう。
仏教の用語に「生老病死」というものがあります。生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと、人として避けることのできない4つの苦(自分の思うようにならないこと)があるという意味です。
「義の審判の時」そして「新しい世界」
しかしこの国では「死」の後にやって来る事柄について語られることは稀です。このことについてはっきり語っているのが聖書です。聖書を通してご自分を示された「天地を創造した神」は、この世界における生老病死の先に厳粛な「義の審判の時」そして「新しい世界」がやって来ることを教えてくださっています。
正義が歪められることが少なくない「この世」で、不条理・不正義に苦しんできた人にとっては、すべての不義が正される時がやって来るということは救いであり希望です。また感謝なことに、「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(新約聖書 ヨハネ 3:17)とある通り、このお方は罪にまみれた人類を救うために「メシア(救い主)」を送って、私たちが義とされる「道」を既に準備してくださっているというのです。
新天新地に入城する「祭り(祝典)」に参加させていただく私たち
「その時」がいつやって来るかわからないという思いは私たちを不安と恐怖の虜にします。しかし聖書は、今から2500年以上前「ダニエル」という預言者に「神の秘密(70週の預言)」を示し、ユダヤ人とエルサレムの将来、そしてこの世界に終わりの日がいつ到来するのか、また何が起こるかを教えてくれています。人類の罪を一身に負い、身代わりの死を遂げた「救い主」(メシア)が、終わりの日に義の支配を確立するために戻って来られるというのです。
聖書の最後の書「ヨハネ黙示録」においては、「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」(22:17)という言葉で締めくくられています。「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」と語っておられるお方の前で、神と和解する「いのちへの道」を選び取り、「神の家族」とされた諸国の民と共に、新天新地に入城する「祭り(祝典)」に参加させていただく私たちでありたいものです。
新約聖書 ヘブル 9:27
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
新約聖書 Ⅰテサロニケ5:2~3
主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。